自由研究。自分のアンテナ磨き

雑記

8月になりました。子供の頃、私が夏休みの宿題が気になり始めるのはお盆過ぎでした💦

中でも苦痛だったのは「自由研究」。毎年、毎年テーマが決まらない。

何事も仕方なしにやることほど苦痛な物はありません…。

今思えば、純粋に「なんで?」と思う事を調べるという視点でテーマを考えればよかったのかな、

と思いますが、私は完全なる片付け仕事でしたが・・・。

今回は、若者の自由な発想や問う力に感動しつつ、自分の視野の狭さを痛感した自由研究作品コンクールからご紹介します。読み終わる頃には、日々の出来事の捉え方が変わってくるかもしれませんね。

太宰治「走れメロス」を算数の視点で検証!?                     

一般財団法人理数教育研究所により開催される「算数・数学をテーマした自由研究」の作品コンクールがあり、WEBサイトから過去受賞作品もみることができます。

中でも、2013年度中学校の部の最優秀賞を受賞した村田さんの研究「メロスの全力を検証」は、

その着眼点に視野の広さを感じました。

村田さん「メロスの全力を検証」研究概要

「走れメロス」は言うまでもなく太宰治の名著です。

古代イタリア半島の南端を舞台に、友情、信頼、希望といった側面が描かれた有名な短編小説ですね。

自分の体力的・精神的限界や弱き心と闘いながらも、人を信じること、約束を守ること、

友情を重んじること、また全力を尽くすことで希望を叶えられるという、

人としての在り方のようなことを主人公メロスの姿から教わった作品と記憶しています。

まぁ、一言で言えば「非常に美しく、ええ話」なのです。(自分の語彙力がひどすぎる💦)

この物語では、主人公メロスが親友の命がかかっている中、10里(約39キロ)の道を様々な障害や困難を超えながらひたすらに走り続けていく訳ですが、村田さんの着眼点は物語うんぬんではなく、その風景描写から、親友の命が掛かっている中で『メロスは一体どれほどのスピードで走ったのか?』という算数的視点で検証していらっしゃるのです。

小説を理科・算数的に検証しようと思いついただけで、

目からウロコ状態です。はぁスゴイ。

「どれくらいの速さだったのかなー?」「メロスって足早いのかなー?」と、まず疑問を抱いた時点でもう素晴らしい!

私などは「メロス氏、めちゃ頑張ってる!快楽に流されるとことか人間味もあってそこもまたいいじゃない!」と確実に読み流していましたね…。

村田さん検証結果

往路「初夏、満天の星」と描写されているところに着目し、0時と仮定。

メロスの到着時の様子は「日は既に高く昇って」「村人たちは野に出て仕事を始めていた」とあるので午前10時と仮定してみると、メロスの走りっぷりは‥‥

39km÷10時間=平均時速3.9km。

ん? 確か、男性の65歳~69歳の通常歩行時の平均速度が3.8km/時くらいだったような‥‥。

「歩行の科学:運動不足克服のために」阿久津邦夫著 参照)

とはいえ、メロスの経路は決して平坦な道じゃぁなかったでしょうからね。まぁよし。

復路においては、出発時間を仮定したポイントは「薄明りの頃」という描写。

物語の舞台イタリア南端は「北緯38度」で日本の仙台とほぼ同じゆえ、仙台の日の出時刻を参考にメロスは午前4時30分に出発したと仮定。

「全里程半ばに到達した頃」「太陽も既に真昼時」から正午には半分(約20Km)を走っていたとするならば、20Km÷7時間30分≒平均時速2.7km。

え?

さらに、最後の死力を振り絞って走りぬけたというシーンも、推定平均時速5.3km。

うーん。30歳代前半男性の平均歩行速度に近しいようだ…うん。まぁ疲労困憊だったしね。

村田さんの考察によると、今回の検証によるメロス氏の推定速度からすると

「メロス氏は死力を振り絞って走ったとは言えないのでは…?」という結論に至ったようです。

研究作品レポートの締めくくりは『「走れメロス」というタイトルは「走れメロス」の方が合っているなと思いました』とまとめられ、検証した結果に対する村田さんの素直な感想が綴られていました。

村田さんの研究「メロスの全力を検証」(一般財団法人理数教育研究所「過去の受賞作品」2013年度より)

私の自由研究

自由に研究してみよう!が目的ですが、そもそも研究対象を見つけられなかったので私の小学生時代約半分は「きゅうりの観察記録」でした。(太古の話)

毎年、近所のおば様がきゅうりの苗を何故かくれるので、『植えた→〇センチになった→花が咲いた→実がなった→〇センチに育った→収穫した』というただの観察記録。なーんにも研究はしていません。

書いたきゅうりのイラストもひどいものだったナ。

休み明け、クラスメイトの「研究」っぽい作品に心の底からすごーい!とただ感心するだけの私。

一応何かを提出しているからOKをだしてくれていたのでしょうね。先生ありがとう。

関心を持つアンテナを育てる

言われた事はきっちりやれるけど、好きにやっていいというのが苦手だったのかもしれません。

小学生の間は、大人から見る「おりこうさん」だったので、常に正解に寄せたい思考をもっていたのかもしれません。空気を読み周囲に忖度しがちな子供(笑)

「これはこういうものだ!」と教え込まれることに慣れると、疑問や関心を持つアンテナが育たないですよね。だから関心を払う対象が見つけられず、何をやろうかとモヤモヤしているうちに、きゅうりの苗が届き、まぁ今年もこれでいいか、と。

誰でも自分が関心を持てることは本気にも、夢中になれるものです。

仕事上や生きてく上で役には立ちそうもないけど、やたらと○○に詳しい人って身近にいらっしゃいませんか?夢中になれるものに出会えるというのは、ある意味スゴイ事だと思っています。

エネルギーの向け方がハンパないですものね。

意味がある、なし。役に立つ、立たないと将来に向け現実的に考えず、夢中になる体験そのものや、いろんな事に関心を持てる感覚を子供のころから味わうことが、将来を豊かにしていく一助になるように思えてなりません。

祖父が何故かマンガを読んでいる小学生の私を褒めてくれたことがありました。

「マンガだろうが、物語だろうが文字を読むという意味では同じ。読みたいものを読めばいい」と祖父の発言は何故か今も覚えています。関心の向くことをおやりなさいという事だったのでしょうね。

まとめ

村田さんが「小説=読み物」としてのみ捉えなかった視点は私には無かったものでしたね。

先行き不透明なこの時代、自分の人生を納得しながら創造していくためには、柔軟な思考や広い視野は持てるにこしたことがないように感じています。

もう社会人になった今、私に宿題としての自由研究は課されませんが、アイデアや解決策をひねり出す時、そもそも論の視点に立ち返ったり、大前提と思い込んでいたことを一旦ゼロにして考えなおしたりすることで思わぬ道が見えてくるように思い、自分の物の捉え方の枠組みを広げていきたいと思わされました。まだまだ進化していきたいです。

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